SALMO SAX














イントロデュース
大友 良英

INTERVIEW (English) 1
improvised music from japan

インタビュー 2
音場舎通信 北里

アムステルダム滞在紀
山内 桂

欧州即興紀行
山内 桂

トフのモノローグ
tofu-tokiwa

山内 桂と「呼吸」
「AND SO ON」吉村 光弘




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このホームページはサックス奏者、山内 桂(やまうちかつら)の演奏活動記録です。中央の音楽シーンからは遠く離れた地で、長い時間をかけて独自の瑞々しい音楽を醸し、比類なき独特のサウンドと語法が新たな出会いを求める。

●スケジュールその他のお問い合せは
お気軽にこちらまで(山内桂)
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※断わり無き転載はご容赦願います。



山内桂のCDアルバム紹介

Ftarri Collection 7
Ftarri Collection 7
2013


Ftarri Collection 4
Ftarri Collection 4
2013


Spanien
Spanien
jvtlandt(Denmark) 2013


Three Rushes
Three Rushes
2010


Yokutojin/浴湯人
Yokutojin/浴湯人
2012


朝 見
朝 見
jvtlandt(Denmark) 2010


祝 子
祝 子
salmosax ensemble 2008


★MUSICサンプル試聴版
・Salmo (another take)


シグナル4
Signal to Noise Vol.4
2007


シグナルノート
Signal to Noise Vol.2
2007


winter2007
WINTER 2007


サードアルバム
PATIRUMA 波照間
2007


LA
LA DRACHE 白雨
2006


ALBUM
SALMO SAX
2003

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Salmo Band
Katsura Yamauchi(sax)
Kouta Hurusawa(as)
Keiji Koide(b)
Kenji Umeki(ds)



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サルモ・サックス
このホームページはサックス奏者-山内 桂の演奏活動記録です。



An Interview with Kitazato

生年月日とお生れになった場所をお教えください。

1954年7月15日別府生まれです。
博多、熊本、大分、広島、松山と転居しました。

そもそも即輿に対する関心はどこから始まったのでしようか?

小学校の時から音楽が好きで楽しかったのです。
器楽部で笛やハーモニカ、アコーディオン、後にはウッドベースもやりました。
小学校二年生頃から大抵の曲をドレミで歌えましたし、楽譜なしで即ハーモニカや笛で演奏できました。
このことが後のフレーズを持たないことと、今日のサウンドに繋がっているように思います。
でも六年生の時に転校して、その受け皿がすべてなくなりました。
ショックはけっこう大きく、かなり続きました。
そしてクラシック音楽と自分とのずれも大きくなりました。
音楽は好きなのに、自分の感性と共鳴するものを失い音楽と遠ざかってしまいました。
ジャズと出会ったのは高三の時です。
今までの空白を埋めるように聴きあさり、ジャズとは? と考え続けました。
そしてその重要な要素にアドリブ、即興があり、その時にはその優越性に浸ったりもしました。
ただアカデミックなジャズ教育を受けなかったため、フレーズのコピーなどはあまりしませんでした。

高校を出て初めて中古のアルトサックスを手にし、松山の大学でジャズクラブに入部しました。
コルトレーンは過去の音楽で重要なのはジャズの今だと教わり、フリージャズ、AACM、ヨーロッパの即興にのめっていきました。
ヨーロッパの異質の空気感、ジャズとは違う音色、緊張感、それがフリー・インプロビゼイション・ミュージック、即興との出会いでした。
幸か不幸か潰れかかっていたクラブだったので、1人で大半を過ごす辛い時期でしたが、好きなことができたのも事実です。
たまに先輩がブルースなんかを付き合ってくれたりしましたが、当時の私は熱く燃えており、気持ちはフリージャズにありました。
やり方も何も知らぬまま、とにかくメチャクチャに思いの丈をぶつけ演奏を続けました。
後輩が入ってきて人数が増えると、組曲風に曲を作り活動しました。

AACM、グローブ・ユニティ、カデンツァノバダニカなど影響を受けましたが、もうその頃はジャズの意識はなく、フリージャズもいやになってました。
やがて、間章氏によるミルフォード・グレイブス招聘を皮切りにデレク・ベイリー、ハン・ベニンク、トリスタン・ホンジンガー等の主催に直接間接に関わったり、EEUなどとワークショップを重ねました。
スティーブ・レイシー、アンソニー・ブラクストン、デレク、ロスコー・ミッチェル等の無音、小音にも強い示唆を受けましたが、演奏は難しく、共感してくれる演奏者もいませんでしたし、聴衆も明らかに辛そうに見えました。
それでいつの間に自分でも封印をして、演奏自体をやめてしまいました。

アメリカのジャズから欧州フリーに移行されていったわけですね。少し戻りますが、普通コルトレーンの後期などはフリージャズとされるでしょう? 山内さんのジャズ・ジャイアンツ体験はもっぱら聴き手としてだったということでしょうか?

ジャズを聴き始めて1年くらいして徐々にコルトレーンに絞られてきました。
実は広島で1年間浪人をしまして、ヤマハに5ヶ月通いました。
最初からまったく自己流ではまずいと思ったからです。
でも後は我慢の月日で、楽器はお休みでした。
蛇足ながら、ヤマハの教室(個人教授ではない)の講師は井上(敬三)先生でした。
まだ、フリーはやってませんでした。
おもしろい、いい先生でしたが、よく東京などに行って休みが多かったです。
後になって、松山でフリーを展開していた時に、井上先生が旗を揚げたと聞き及び、広島リアルジャズ集団の鈴木(恒一郎)氏、ギターの上永(龍三)氏などを交え、広島、松山間で交流して盛りあがった時期があります。
で、大学に行くのはジャズをやるため、さらに言えば、コルトレーンの「マイ・フェバリット・シングス」のコピーを吹きたい、と思ってました。
でも先程言いましたように、アカデミックにジャズを学ぶ機会はなくて、コルトレーンのレコードと一緒に吹いたり、モード演奏をしたりしていました。
と言ってもきっちりしたものではなく、彼のように吹けるわけもありません。
“ムード奏法"です。ですから、聴き手だけ、というのでもないですが……。
私にとってモードとフリーは連続していて境はありません。同じだと言ってるのではありません。
厳密な意味ではないですが、モードは音階、スケールの音楽であり、モダーンジヤズはフレーズによって成り立っていると思います。
ですから割とモードはやりやすく感じます。
フリーや即興は、モード以上にフレーズを拒否するように思いました。
ですから指がフレーズを覚えないような練習さえしました。
自分のことや自分のしたことをすべて肯定したいのでなく、このような過去が現在の音を作っているのだと思います。
今の自分の関心が音響的なものにも及んでいるのも、手ぐせはあるものの、フレーズを持ってない者が、音そのものに向かって演奏してきたからかもしれません。


様々な出会い

スタッフとして、また共演者として、これまで他の即輿演奏家との関わりのなかで得てきたものを、教えていただけますか?

大学に入って、レコードはもちろん、生の演奏に接すること自体、新鮮な刺激がいっぱいでした。
でもrこんなものか」と思ったライブがあったことも事実です。
手探りでフリーをやっていて、それに合わせてくれたわけではないでしょうが、行きつけの「アウラ」というジャズ喫茶が中心になって、ミルフォード・グレイブスを松山に呼んだことがあります。
高木元輝、近藤俊則(当時)、土取利行がいました。間章もです。
スタッフも入れて10人近くがうちに2泊したと思います。
それを皮切りに様々なミュージシャンを松山に呼びました。
ミュージシャンの多くがうちに泊まりました。
彼らはやはり独特の空気感を持っており、まさに無形のもの!を吸収したような気がします。
ミルフォードのライブでの最初の音、一撃は、いまだに鮮明です。
背筋がぞっとしたのを覚えてます。
瞬問に高い次元の音空間に変わりました。
ずっと自分自身のテーマだった「自由」もですが、これはたしか間さんの言葉だったと思いますが、「しなやか」という言葉を当時よく使いました。
その言葉がふさわしいミュージシャンが多かったと思います。特に外国人ですが。
銭形平次を見るミルフォードも、静かなデレクも、常にハイテンションなハンも、穏やかなホンジンガーも、キュートなトム・コラも、しなやかでした。
彼らは、自分であれ、自分の音を出せ、と物言わず教えてくれました。
いつも遠くを見ている感じの土取さんも印象的でした。個性の集まりの中でも抜きん出てしまうホンジンガーの存在、彼の柔らかさが好きです。
これはバール・フィリプスにも共通しています。
そういえばエルンストも。3人が弦楽器というのもおもしろいです。
それと、間さんの俗っぽさにはびっくりしました。
会う前の印象とこんなに違う人も珍しいほどでした。
でも、彼もやはり外国人的な空気感を持っていました。
実はそこらに重要なことがあるように思っています。
それを「しなやか」ということばに変換も可能だと思います。

「自由」とともに「しなやか」であることが重要だったのですね。しなやかな自由というような意味合いで、「自在」などと言われることもあったと思いますが、山内さんにとって、このふたっの言葉はいまも演奏や生き方の理想なのでしょうか?

ジャズとの出会い、音楽との再会を果たしたころは、社会に対して懐疑的で反抗的な年頃だったので、フリージャズも即興もその流れの中でとらえてきました。
したがって、「自由」がもっとも基本的命題でした。
「しなやか」は自由の表面的な表れ方みたいに漢然と思ってました。
当然ジャズよりフリージャズ、フリージヤズより即興演奏が、形式的、手法的により自由ですが、でもそれは相対的自由です。
そうではなく、絶対的自由を望みました。
それは自分の不自由の裏返しでした。

即興音楽を自由の観点から拡大解釈して規定すると、いかに自由を増やしていくか、ではなく、そもそも混沌の音世界に音楽のジャンルやルールやアイディアを持ち込むことの自由であり即興音楽だとも考えました。
したがって即興と作曲の境は網渡りであり、連続しているとも考えました。
また「自由の表現」と「自由な表現」があることにも気づきました。

でも人間は弱いもので、形に囚われます。私も囚われ、出口なしの状況に陥り、音楽を4年間やめました。20年ほど前です。
その間に大分へ転職し、もう演奏することはないと思っていましたが、やがて再開します。
ジャズセッションに参加するとともに、手作りの音楽バンドを作るためです。
やはり音楽からは離れられなかったようです。
新しい土地で一から出直したため、即興演奏は前にも増して厳しい状況でしたが、少しずつ続けました。

そうこうして年月がたち、最近わかってきました。
つまり、音そのものが生き生きしていること、そしてそれを発する身体も生き生きしていること。
そのこと自体が「自由」なのだ、ということ。
簡単なことですが時問がかかりました。
もはや足かせはなくなり、あとは実践だけです。
音は聴くものでなく身体で感じるものです。

かつて感じたミュージシャンたちの「しなやかさ」の意味も、今ならよくわかります。
ジャンルも意味はありません。
即興演奏は瞬間瞬間の選択を続ける音楽ですから、意識が入りにくく、感性を生かすのに有効な形態だとは思います。
でも音楽の中の一形態にすぎません。
ただ、永らく接してきた「即興演奏」が一番身近でやりやすいから演奏します。
一方で自作曲の演奏も続けてます。
「自由」は今ではあまり問題でなくなりました。

現在は、ソロ演奏の他に、ペナンペやサルモバンドといったグループで活動されているとのことですが、大分での活動はどんな風だったのですか?

1987年になって、自由な音作り、曲作りのバンド“パッチワークス”を結成して、活動を再開しました。
以前にやり残した課題が多く、その続きをやるという感じでした。即興演奏に懐疑的だったこともあります。
本当に大分にはフリージャズや即興の下地がなく、奇異に見られました。
アカデミックなジャズが中心ですので。
また、パツチワークスの演奏では、それまでのソプラノよりアルトが適していたので、サックスもE♭中心に変えました。
その後ジャズを少々やりながら演奏を続け、1993年の“ペナンペ”結成につながります。
メンバーに普通のジャズはやめようと言われたのです。
こちらは10年以上も続いてます。

1988年頃、福岡の連中と交流した時期があり、ときたま即興演奏をしました。
その流れで、広瀬淳二氏や大友良英氏などとミニツアーをしました。
92〜93年から山口でそんな動きが出てきて、一楽儀光氏と出会い、カフェ・アモレスなどでキム・デファン氏やチェ・ソンベ氏などと共演しました。
一方、豊住芳三郎氏とも出会い、ミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンク、バール・フィリップス、ポール・ラザフォード、エルンスト・ライセハー氏などと共演することになりました。
そうして即興演奏にもカムバック!したわけです。
97〜98年に、サックス4〜5人にベースという編成の“サルモ・サックス”を結成しました。
大分では即興演奏ができる人がいませんでしたので、即興演奏をシステム的におこなうことを考えました。
他のシステムも含めおもしろいアンサンブルを目指しました。
ですがやはり技術的にも理解においてもむずかしく、数年後には解散し、現在は“サルモ・バンド”というトリオでその流れを引き継いだ音楽をやっています。
一年たってアルトが入り、カルテットになりました。
最近「プレイ・ヤマウチ」のコンセプトで、村田千尋(p)とデュオを始めたところです。
今まであまり意識しなかったのですが、改めて自作曲(五線紙と音符を使った作曲)に焦点を当てるとおもしろくなるかな、と思ってます。

思い起こすと、松山時代からずっとメンバーを育てながらやってきたことが多かったことに気づきました。
また、即興演奏との葛藤がずっとあり、その需要も供給もない中で、即興演奏だけに関わらずいかに演奏そのものを続けるか、そのすり合わせをしてきたとも言えると思います。
「活動を頑張ってやってきた」というより、中断はあったものの「よくやめなかったな」という方が正直な思いです。
それが大事なことにも思えます。ソロ演奏は厳しいです。即興演奏自体難しい土地で、ソロ演奏ですから。
基本的にすべてライブのプロモートもやってきました。
お世話をしていただける方や呼んでいただける所があればありがたいのですが、そういうことはまれです。
ソロ演奏はまだ何度かやっただけです。
なんとか演奏場所を開拓しようとはしているのですが。
脱サラした今、そこが最大のテーマであり、大分、東京、その他のどこをベースにするか、音楽を中心にした人生を築けるか、現在模索中なのです。

昨年、定職を投げうって音楽の道を選ぱれたのですけれど、これは大決断だったと思います。最終的になにが山内さんをそうさせたのですか?

永い間サラリーマンをしていて、当然ですがそのことに意義を見出してました。
地方でアマチュアだけれど、だからこそできる音楽をプロに負けずやろうと思ってました。
しかしこの時代、だんだん厳しくなり、職場でのストレスが高まりました。
また、将来的に自分の地位立場を考えると、音楽ができなくなるのが見えてきました。
お茶を濁すような晋楽や、定年を待ってやる音楽には耐えられないと思いました。
自分の人生をつまらなくしたくなかったのです。
他にもいくつか理由はありますが、それら色々な流れが辞める方向に向ったように思います。


処女作周辺

初リーダー作となる今回の『サルモ・サックス』についてなのですけれど、「サルモ」って何のことですか。楽器メーカーのこと?

「サケ科」の意味です。ラテン語の学名です。
渓流釣りが好きで、サルモ釣協会を仲間とでっちあげました。
コンサートを主催する時などもその名称を使いました。
また、バンド名として「サルモバンド」があります。
サルモ合宿、サルモ探検隊、などと使えます。
ホームページもサルモサックスです。
CD6曲目の「オンコリンクス」も同じ意味です。
大友氏をサケ科の魚類にしてしまいました。
サルモは大西洋、オンコリンクスは太平洋のサケ科です。
ちなみにヤマメはOncorhynchus masou masouです。

処女作をサックス・ソロにしようと思った理由を教えてください。録音はどのように進めていかれたのでしよう?

第一の理由は、私に中央のミュージシャンたちとのパイプがないからです。
第二の理由は、ソロに可能性があるから。
辞表を出した瞬問、今までの半端な人生を思い知りました。
そして演奏も変わりました。
これからそれを煮詰めなければなりません。
第三の理由は、そそのかされました。
録音はCDに書いてある美術家夫婦に手伝ってもらいました。
中古のDAT録音器を買って、予算的にスタジオは使わず、久住町の酒蔵に二泊しながら、どんどん録音していきました。
基本的に即興ですので、やり直しはなく、一回一回が新曲です。
20曲以上やったと思います。
演奏のできより、形として残すことを考えて選曲しました。
後でどうしても足りないと思った分を、さらに一人で夜、幼稚園や小学校、喫茶店で録晋しましたが、なにぶん機材が古く、作動がうまくいかなかったり、録音できなかったり、途中で人が来たりと大変でした。
最後にどうしても谷で録音をしたくて、かれらとキャンプを兼ねて出かけました。
前からしたかったのです。
ウェィダーをはいて川の中での演奏、実は遊びではしたことあるのです。
キャンプでもよく吹きました。
ついにそのCD化実現でした。

谷川での即輿とは、ドネダさんを思い出させますね。選ぼれた谷川はよく行かれる場所なのですか。サルモ釣協会の山内さんとしては、川と即輿演奏を結びつけることは、当然すぎるほど当然の選択と思いますが、そうですね、角度をかえてこう質問させてください、ドネダさんが自然のなかで即輿をすることをどう思われます?

はい、よく行く谷のひとつです。
まったくその通りです。
実は雪山にも永年通いまして、日本中の山々を、すべてひとりで登り、山スキーで滑ってきました。
結びつける意識もありません。
大分川の川原では11回観月ライブをやってもきました。
地元や他県のミュージシャン、舞踏家、劇団、一楽さん、庄子さん、倉地さんなども参加してくれました。
サラリーマン生活を含め、良くも悪くも多くのミュージシャンとは異なる人生ですので、それらを生かす音楽人生になれば、と思うのです。
この4月にドネダ氏、斎藤氏と共演しまして感銘しました。
お二人にも喜んでいただき、10月にはフランスでドネダ氏に会う予定です。
彼にCDをいただき、それで初めて自然の中で演奏していることを知りました。
先にやられた、と少しだけ思いましたが、それ以上驚きもなく、これも自然に受け取れました。
大分で裏山をかれらと歩いたのですが、ドネダ氏は自然の中に身をおくことにも! 愉悦を覚える人のようでした。
ですから多分計算してのことではなく、楽しいから、そして、遊び感覚で演奏しているのだろうと思います。


本稿は、8月12日から19日にかけて電子メールで行われたインタヴュー全文で、読みやすさに配慮して質問者の北里が加筆したものを、山内氏に最終的にチェックしていただいたものです。
音場舎通信60号(2003年9月5日 omba@tkm.att.ne.jp)






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